世界最初の絵入り教科書とされる『世界図絵』(1658年)を著した人物は誰か。
- ルソー
- コメニウス
- ペスタロッチ
- フレーベル
正解と解説
『世界図絵』はコメニウスの著作で、ことばと絵を結びつけて学ばせる工夫から、直観教授の先がけとされます。ルソーの代表的な教育書は『エミール』、ペスタロッチは『隠者の夕暮』『リーンハルトとゲルトルート』、フレーベルは『人間の教育』です。
根拠:コトバンク「コメニウス」(2026-10-16確認)
幼稚園教員 KINDERGARTEN TEACHER
幼稚園が生まれる前に、「子どもとはどんな存在か」「幼い子をどう育てるか」を考えた人たちがいました。この講義では、幼児教育の土台になった4人と、働く親の子どもを預かる施設の始まりを見ます。
教員資格認定試験の「教科及び教職Ⅰ」や採用試験の教職教養では、教育の思想と歴史が問われます。人物の名前だけを覚えるのではなく、「誰が・いつ・どこで・何をしたか・何という本を書いたか」の組み合わせで覚えることが大切です。教育史全体(ヘルバルト、学制など)は教職・一般教養ラボで学べます。ここでは、幼児期の教育につながる人物に絞ります。
コメニウス(1592〜1670年)は、モラビア(今のチェコ)生まれの教育思想家です。主著『大教授学』(1657年)で、身分に関係なく「すべての人に」「すべてのことを」教える学校の改革を説き、「教授学(教え方の学問)の祖」と呼ばれます。もう一つの代表作『世界図絵』(1658年)は、世界最初の絵入り教科書とされます。ことばと絵を結びつけ、目で見て分かるように工夫した本で、実物や絵を通して感覚で理解させる直観教授の先がけと位置づけられています。
18世紀フランスで活躍した思想家ルソーは、1762年に『エミール』を出しました。孤児エミールが生まれてから結婚するまでを、小説の形で描いた教育論で、5編からなります。ルソーは「人は子どもというものを知らない」と述べ、子どもを「小さな大人」として扱うのではなく、子どもとは何かを研究するところから教育を考えるべきだと主張しました。このため『エミール』は「子どもの発見の書」と呼ばれます。人為的な教え込みを退け、自然の歩みに従う教育を求めた考えは、ペスタロッチやフレーベル、日本の大正期の自由教育にも影響を与えました。
スイスのペスタロッチ(1746〜1827年)は、ルソーの影響を受けた教育実践家です。ノイホーフで農場と貧しい子どものための学校を開きましたが、うまくいきませんでした。1798年にはシュタンツで戦争により親を失った子どもたちの世話にあたり、その後ブルクドルフで教師となり、1805年にはイベルドンに学校を開きました。
主な著作は『隠者の夕暮』(1780年)、教育小説『リーンハルトとゲルトルート』(1781〜87年)、『ゲルトルートはいかにしてその子を教えるか』(1801年)です。『リーンハルトとゲルトルート』では、家庭の「居間」を教育の場とする考えが描かれています。ペスタロッチは、ものを実際に見たり触れたりしてとらえる直観を認識の基礎とし、晩年の『白鳥の歌』では「生活が陶冶する」(生活そのものが人を形づくる)という原理を述べました。のちに幼稚園をつくるフレーベルは、イベルドンでペスタロッチに学んでいます。
18世紀の終わりから、ヨーロッパでは貧しい家庭や工場で働く親の子どもを昼間預かる施設が生まれました。事典では、フランス(アルザス地方)の牧師オーベルランが1779年に始めた施設が最初とされています。イギリスのオーエン(1771〜1858年)は、紡績工場を経営する実業家で、1816年にスコットランドのニュー・ラナークの工場に性格形成学院を設け、イギリス最初の幼児学校を開きました。働く人の子どもに、健康によい環境と楽しい活動を用意したことが特徴です。フランスのマルボーは1844年、パリで工場で働く人の子どもを預かる施設を始めました。これらは今の保育所の源流と考えられています。
| 人物(国) | 年・著作 | キーワード |
|---|---|---|
| コメニウス(モラビア) | 『大教授学』1657、『世界図絵』1658 | 教授学の祖、世界最初の絵入り教科書、直観教授の先がけ |
| ルソー(フランス) | 『エミール』1762 | 子どもの発見、自然の歩みに従う教育 |
| ペスタロッチ(スイス) | 『隠者の夕暮』1780、『リーンハルトとゲルトルート』1781〜87 | 直観、居間の教育、「生活が陶冶する」、シュタンツ |
| オーベルラン(フランス) | 1779 施設を始める | 貧しい家庭の幼児を昼間預かる |
| オーエン(イギリス) | 1816 ニュー・ラナーク | 性格形成学院、イギリス最初の幼児学校 |
| マルボー(フランス) | 1844 パリ | 工場で働く人の子どもを預かる施設 |
根拠:コトバンク「コメニウス」、コトバンク「エミール」、コトバンク「ペスタロッチ」、コトバンク「保育所」、Britannica「Robert Owen」、Britannica「kindergarten」。人物の年号は事典によって違うことがあるため、事典の記述がそろうものだけを書いています(2026-10-16確認)
「幼稚園」という言葉をつくったフレーベルと、「子どもの家」を開いたモンテッソーリは、今の幼稚園教育を考えるうえで欠かせない2人です。違いを比べながら覚えましょう。
ドイツのフレーベル(1782〜1852年)は、世界で最初の幼稚園をつくった人物とされます。1805年にフランクフルトのペスタロッチ主義の学校で教師となり、その後スイスのイベルドンでペスタロッチに学びました。1816年ごろから自分の学校で教育を始め、学校はのちにカイルハウに移ります。その実践をもとに書いた主著が『人間の教育』(1826年)です。
フレーベルは、子どもが自分から動く自己活動と遊びを教育の中心に置きました。1837年ごろからは、幼児の創造性や自己活動を育てる教育的な遊具を考え、恩物(おんぶつ、ドイツ語でGabe=贈り物)と名づけました。「神からの贈り物」という意味です。ブランケンブルクに幼児のための施設を開き(開いた年は事典によって1837年と1839年がある)、1840年にこれをKindergarten(キンダーガルテン=子どもの庭)と名づけました。植物が庭で育つように、子どもが自由に育つ場所という意味がこめられています。これが「幼稚園」という名前の始まりです(命名の年は日本の事典では1840年。英語の事典には1837年の開設時とするものもあります)。1844年には、母親向けに家庭教育の大切さを説いた『母の歌と愛撫の歌』も出しています。
1851年、プロイセン政府は幼稚園禁止令を出しました。フレーベルは翌1852年に亡くなりますが、弟子たちが運動を受け継ぎ、幼稚園はヨーロッパや北アメリカ、日本などに広がりました。
イタリアのモンテッソーリ(1870〜1952年)は、1896年にローマ大学で女性として初めて医学の学位を得た医師です。最初は知的障害のある子どもの研究と治療にあたり、そこで得た方法をほかの子どもにも広げようとしました。1907年、ローマの貧しい地区サン・ロレンツォの集合住宅に、3〜6歳の子どものための「子どもの家」(Casa dei Bambini)を開きました(1905年とする事典もある)。
モンテッソーリは、発達の力は子ども自身の中にあると考え、大人が干渉しすぎない、自由な環境を重んじました。感覚教育のための教具を考え、子どもは自分で選んだ教具に取り組みます。また、子どもを細かく観察して、ある能力を特に身につけやすい時期である「敏感期」を見いだしました。日本には大正期に河野清丸らが紹介しましたが、当時は十分に受け入れられず、1950年代半ば以降に再評価されました。今も幼児教育や障害児教育で使われています。
| フレーベル | モンテッソーリ | |
|---|---|---|
| 国・生没年 | ドイツ・1782〜1852 | イタリア・1870〜1952 |
| 施設 | ブランケンブルクの施設を1840年に「幼稚園」と命名 | 1907年、ローマに「子どもの家」 |
| 遊具・教具 | 恩物(神からの贈り物) | 感覚教育のための教具 |
| 重んじたこと | 自己活動と遊び | 自由な環境、子どもの自己活動、敏感期 |
| 主な著作 | 『人間の教育』1826、『母の歌と愛撫の歌』1844 | 『モンテッソーリ・メソッド』(英語版1912) |
20世紀の初めには、子どもを中心に教育を考える動きが広がりました。スウェーデンのエレン・ケイは1900年に『児童の世紀』を出しました(英語訳は1909年)。アメリカのデューイは1896年にシカゴ大学に実験学校をつくり、『学校と社会』(1899年)で、子どもが作業や活動を通して学ぶ学校を描きました。欧米のこうした新しい教育の動きは、大正期の日本にも紹介されました(講義4)。
今の幼稚園教育要領は、「幼児の自発的な活動としての遊び」を「重要な学習」とし、幼稚園教育は「環境を通して行うもの」としています。遊びを重んじたフレーベル、環境を整えたモンテッソーリの考えと重なる部分があります。ただし要領は特定の人物の方法を採用したものではありません。
根拠:コトバンク「フレーベル」、Britannica「Friedrich Froebel」、Britannica「kindergarten」、コトバンク「モンテッソーリ」、Britannica「Children's House」、Britannica「Maria Montessori」、Britannica「Ellen Key」、コトバンク「デューイ」、文部科学省「幼稚園教育要領」(平成29年告示)(第1章第1)(2026-10-16確認)
日本の幼稚園は、明治の初めにフレーベルの考えを取り入れて始まりました。最初の幼稚園の様子と、明治の終わりまでに整えられた制度を見ます。
1872(明治5)年の学制には「幼稚小学」という幼児の学校が書かれていましたが、実際にはつくられませんでした。1875(明治8)年には京都の小学校にフレーベルの幼稚園にならった「幼稚遊嬉場」ができましたが、1年半ほどで閉じています。
日本の幼稚園教育が本格的に始まったのは、1876(明治9)年11月に開かれた東京女子師範学校附属幼稚園からです。監事(園の責任者)は関信三、首席保母はドイツ出身の松野クララで、豊田芙雄らが保母を務めました。保育はフレーベルの方法によるものでした。通ったのは主に上流家庭の子どもでした。
1877年の規則では、対象をおおむね満3歳から満6歳までとし、定員は約150人、年齢で3つの組に分けました。保育時間は1日4時間です。保育の内容は「物品科」「美麗科」「知識科」の3つに分けられ、歌やお話、体操、遊びなど約25の活動が含まれていました。
1879(明治12)年には、東京から豊田芙雄が招かれて鹿児島女子師範学校附属幼稚園が開かれ、大阪にも府立模範幼稚園ができました。幼稚園の数は1880年に5園(幼児426人)、1887年に67園となり、明治20年代の終わりには200園をこえました。
最初の幼稚園は上流家庭の子どもが中心でした。そこで文部省は1882(明治15)年、子育てをする暇のない貧しい家庭の子どもも受け入れる簡易幼稚園を勧めました。1884年には、学齢に達しない子どもを小学校に通わせず、幼稚園の方法で保育するよう府県に指示しています。
小学校とのつながりも、早くから課題になりました。附属幼稚園では1881年に、いちばん年上の組を小学校への「接続級」とし、小学校1年の内容に合わせる試みも行われました。その結果、幼稚園で読み書き・計算を教えたり、恩物を知的な訓練に使ったりする傾向も生まれました。倉橋惣三は、明治期に形式化したこのようなフレーベル主義を改めようとしました(講義4)。
1899(明治32)年、文部省は幼稚園保育及設備規程を定めました。保育の内容・設備・人数などを定めたもので、1947年の学校教育法ができるまで、幼稚園の法的な枠組みとなりました。主な内容は次のとおりです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 対象 | 満3歳から小学校に入るまでの幼児 |
| 保育時間 | 1日5時間以内 |
| 人数 | 保母1人につき幼児40人以下。1園100人以下(特別な事情があれば150人以下) |
| 保育項目 | 遊戯・唱歌・談話・手技の4つ |
明治の中ごろからは、働く親の子どもを預かる施設も生まれました。1890(明治23)年、赤沢鍾美・仲子夫妻は、新潟につくった新潟静修学校で、生徒の子守りの負担を助けるため、幼い子どもを別室で預かりました。保育所の源流の一つとして知られています。1900(明治33)年には、野口幽香と森島美根が、東京で貧しい家庭の子どものための二葉幼稚園を開きました。のちに四谷鮫河橋に移り、大正期には乳児も預かる分園もできました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1872(明治5) | 学制に「幼稚小学」(実際にはつくられず) |
| 1876(明治9) | 東京女子師範学校附属幼稚園が開園 |
| 1879(明治12) | 鹿児島・大阪に幼稚園 |
| 1882(明治15) | 文部省が簡易幼稚園を勧める |
| 1890(明治23) | 赤沢鍾美・仲子夫妻が新潟静修学校で幼児を預かる |
| 1899(明治32) | 幼稚園保育及設備規程 |
| 1900(明治33) | 二葉幼稚園(野口幽香・森島美根) |
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園の創設」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園の整備」、湯川嘉津美「幼稚園と小学校の連携・接続をめぐる歴史的考察」(文部科学省 調査研究協力者会議 資料、2010年)、コトバンク「保育所」、国立国会図書館 レファレンス協同データベース「二葉幼稚園」。「幼稚遊嬉場」は『学制百年史』Web版では「幼椎遊嬉場」と表記されています(2026-10-16確認)
大正から昭和にかけて幼稚園の制度が独立し、倉橋惣三が子どもの生活を大切にする保育を説きました。戦後は学校教育法で幼稚園が「学校」になり、保育要領・幼稚園教育要領がつくられていきます。
1926(大正15)年4月、幼稚園令とその施行規則が定められました。幼稚園について独立した勅令ができたのは、これが初めてです。幼稚園の目的は、幼児を保育して心身を健全に発達させ、善良な性情を養い、家庭教育を補うこととされました。
保育項目は「遊戯、唱歌、観察、談話、手技等」となりました。それまでの4項目に観察を加え、「等」の字を入れたことで、園が内容を工夫できる自由が広がりました。対象は満3歳から小学校に入るまでですが、特別な事情があれば3歳未満の幼児も入園できるとし、幼稚園に保育所のような役割も持たせようとしました(実際にはあまり実現しなかったとされます)。幼児数は1園120人以下、保姆1人につき約40人以下と定められました。
倉橋惣三(1882〜1955年)は、東京帝国大学で哲学を学び、児童心理学を研究した人です。東京女子高等師範学校の教授となり、附属幼稚園の主事(園の責任者)を3度務めました。倉橋は、明治以来形式化していたフレーベル主義を改め、子どもの自由な遊びを中心とする保育を進めました。
倉橋の考えの中心が誘導保育です。子どもの自発性を大切にしながら、子どもの生活や興味にそって活動を導いていく保育で、1934年の『幼稚園保育法真諦』にまとめられました(戦後に『幼稚園真諦』として改めて出版)。翌1935年には附属幼稚園が『系統的保育案の実際』を出し、「生活のままを、生活のままで誘導」する保育案を示しています。倉橋は雑誌『婦人と子ども』(のちの『幼児の教育』)を中心になって編集し、絵雑誌『コドモノクニ』『キンダーブック』の監修もしました。戦後は教育刷新委員会の委員となり、日本保育学会の初代会長を務めました。
戦争が激しくなると、幼稚園と託児所の違いはほとんどなくなり、保育時間をのばしたり、働く家庭の子どもを優先したりする園が増えました。空襲などのため、1944年に217園、1945年に486園が廃止されています。
1947(昭和22)年の学校教育法で、幼稚園は学校の一つになりました。今も第1条は学校を「幼稚園、小学校、中学校…」と幼稚園から書き始めています。保育にあたる人の名前も「保母」から「教諭」に変わりました。同じ年の12月には児童福祉法ができ、保育所は家庭で保育を受けられない子どものための児童福祉施設になりました。幼稚園(文部省)と保育所(厚生省)という二つの制度は、ここから始まります。
1948(昭和23)年2月、文部省は保育要領を出しました。幼稚園だけでなく、保育所の職員や家庭の保護者も読むことを考えた手引きで、「楽しい幼児の経験」として見学・リズム・自由遊び・お話・絵画・製作・自然観察・ごっこ遊び・年中行事など12の項目をあげました。
1956(昭和31)年には幼稚園教育要領がつくられ、教育内容を「健康」「社会」「自然」「言語」「音楽リズム」「絵画制作」の6領域に分けました(表記は文部科学省『学制百年史』による。「絵画製作」と書く資料もあります)。同じ年の12月には幼稚園設置基準が省令として定められています。1964(昭和39)年度の改訂では、小学校・中学校・高校の学習指導要領と同じように文部省告示として公示されました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1947(昭和22) | 学校教育法(幼稚園が学校に)、児童福祉法(保育所が児童福祉施設に) |
| 1948(昭和23) | 保育要領(幼稚園・保育所・家庭向け) |
| 1956(昭和31) | 幼稚園教育要領(6領域)、幼稚園設置基準 |
| 1963(昭和38) | 文部省・厚生省の共同通知(保育所の4・5歳児も幼稚園教育の趣旨にそって教育) |
| 1964(昭和39) | 幼稚園教育要領の改訂を告示で公示。幼稚園教育振興の7年計画が始まる |
| 1965(昭和40) | 保育所保育指針がつくられる |
| 2017(平成29) | 今の幼稚園教育要領を告示(2018年4月施行)。保育所保育指針も同じ年に告示 |
1963年には文部省と厚生省の局長が共同で通知を出し、幼稚園と保育所はそれぞれの役割を果たしつつ、保育所の4・5歳児にも幼稚園教育の趣旨にそった教育を行うべきだとしました。幼稚園に通う子どもの割合(就園率)は1970年度に53.7%となり、初めて半数を超えました。
今の幼稚園教育要領(平成29年告示)は、5領域(健康・人間関係・環境・言葉・表現)で内容を示し、幼稚園教育は「環境を通して行うもの」としています。保育所保育指針(1965年策定、2008年に告示化)も2017年の改定で幼稚園教育要領との整合性がさらに図られ、3つの資質・能力や「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」が共通に示されました。詳しくは章「幼稚園教育要領の総則」で学びます。保育所側の歴史は保育士ラボも参考にしてください。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園令の制定」、コトバンク「倉橋惣三」、湯川嘉津美「幼稚園と小学校の連携・接続をめぐる歴史的考察」(文部科学省 調査研究協力者会議 資料、2010年)、文部科学省『学制百年史』「幼稚園による教育」、文部科学省『学制百年史』「新しい幼稚園制度の充実」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園教育の発展と振興」、e-Gov法令検索「学校教育法」、文部科学省「幼稚園教育要領」(平成29年告示)、厚生労働省「保育所保育指針解説」(平成30年2月)序章(学校教育法は第1条・第22条・第26条、e-Gov法令APIで確認)。2017年より前の幼稚園教育要領の改訂(1989年・1998年・2008年)の内容は、一次資料で確かめられなかったため扱っていません(2026-10-16確認)
世界最初の絵入り教科書とされる『世界図絵』(1658年)を著した人物は誰か。
『世界図絵』はコメニウスの著作で、ことばと絵を結びつけて学ばせる工夫から、直観教授の先がけとされます。ルソーの代表的な教育書は『エミール』、ペスタロッチは『隠者の夕暮』『リーンハルトとゲルトルート』、フレーベルは『人間の教育』です。
根拠:コトバンク「コメニウス」(2026-10-16確認)
コメニウスが『大教授学』(1657年)で説いた考えとして、最も適切なものはどれか。
コメニウスは『大教授学』で、身分を問わず「すべての人に」「すべてのことを」教える学校の改革を説き、教授学の祖と呼ばれます。家庭の居間を教育の場とし「生活が陶冶する」と述べたのはペスタロッチです。自己活動と遊びを重んじ恩物を考案したのはフレーベル、敏感期を見いだしたのはモンテッソーリです。
根拠:コトバンク「コメニウス」(2026-10-16確認)
ルソーの『エミール』(1762年)についての説明として、最も適切なものはどれか。
『エミール』は孤児エミールの成長を小説の形で描いた教育論で、「人は子どもというものを知らない」と述べて子どもを研究することから教育を考えるよう説いたため、「子どもの発見の書」と呼ばれます。幼児学校を開いたのはオーエンで、『エミール』は施設の記録ではありません。子どもの家と感覚教育の教具はモンテッソーリ、母親向けの家庭教育の書はフレーベルの『母の歌と愛撫の歌』です。
根拠:コトバンク「エミール」(2026-10-16確認)
1798年にシュタンツで、戦争で親を失った子どもたちの世話と教育にあたった人物は誰か。
シュタンツで戦災孤児の世話にあたったのはペスタロッチです。その後ブルクドルフで教師となり、1805年にはイベルドンに学校を開きました。オーベルランは1779年にフランスのアルザス地方で幼児を預かる施設を始めた牧師、ルソーは『エミール』の著者で、シュタンツで子どもを教えた人物ではありません。オーエンはスコットランドのニュー・ラナークで幼児学校を開きました。
根拠:コトバンク「ペスタロッチ」、コトバンク「保育所」(2026-10-16確認)
ペスタロッチの考えとして、最も適切なものはどれか。
ペスタロッチは、ものを実際に見たり触れたりしてとらえる直観を認識の基礎とし、『白鳥の歌』で「生活が陶冶する」という原理を述べました。経験の再構成はデューイ、神からの贈り物(恩物)を使う遊びはフレーベル、すべての人にすべてのことを教える学校はコメニウスの考えです。
根拠:コトバンク「ペスタロッチ」(2026-10-16確認)
家庭の「居間」を教育の場とする考えが描かれた、ペスタロッチの教育小説はどれか。
ペスタロッチの教育小説『リーンハルトとゲルトルート』(1781〜87年)では、家庭の居間を教育の場とする考えが描かれています。『人間の教育』はフレーベル、『大教授学』はコメニウス、『児童の世紀』はエレン・ケイの著作です。
根拠:コトバンク「ペスタロッチ」(2026-10-16確認)
1816年、スコットランドのニュー・ラナークの工場に性格形成学院を設け、イギリス最初の幼児学校を開いた人物は誰か。
オーエンは紡績工場を経営する実業家で、1816年にニュー・ラナークの工場に性格形成学院を設け、働く人の子どものための幼児学校を開きました。マルボーは1844年にパリで工場で働く人の子どもを預かる施設を始めた人、オーベルランは1779年にアルザス地方で施設を始めた牧師です。フレーベルはドイツで幼稚園を始めた人物です。
根拠:Britannica「Robert Owen」、Britannica「kindergarten」、コトバンク「保育所」(2026-10-16確認)
次のできごとを古い順に並べたものとして、正しいものはどれか。<br>ア:ルソーが『エミール』を出す イ:オーエンがニュー・ラナークに幼児学校を開く ウ:オーベルランがアルザス地方で幼児を預かる施設を始める エ:フレーベルが自分の施設を「キンダーガルテン」と名づける
『エミール』は1762年、オーベルランの施設は1779年、オーエンの幼児学校は1816年、フレーベルの命名は1840年です。オーベルランの施設を『エミール』より前に置く並べ方は、1779年と1762年の順が逆です。オーエンをオーベルランより前に置く並べ方、フレーベルの命名をオーエンより前に置く並べ方も、年代が合いません。
根拠:コトバンク「エミール」、コトバンク「保育所」、Britannica「Robert Owen」、コトバンク「フレーベル」(2026-10-16確認)
フレーベルが1840年に自分の施設につけた名前「Kindergarten」の意味として、正しいものはどれか。
Kindergartenは「子どもの庭」という意味で、植物が庭で育つように子どもが自由に育つ場所という考えがこめられています。「子どもの家」(Casa dei Bambini)はモンテッソーリが1907年にローマで開いた施設の名前です。「学校」「広場」という意味ではありません。
根拠:コトバンク「フレーベル」、Britannica「kindergarten」(2026-10-16確認)
フレーベルが考案した「恩物」の説明として、最も適切なものはどれか。
恩物はドイツ語のGabe(贈り物)の訳で、神からの贈り物という意味です。フレーベルが1837年ごろから考え、子どもの創造性や自己活動を育てることをねらいました。感覚教育の教具はモンテッソーリ、世界最初の絵入り教科書はコメニウスの『世界図絵』、働く親の子どものための環境づくりはオーエンの幼児学校の特徴です。
根拠:コトバンク「フレーベル」(2026-10-16確認)
フレーベルが母親に向けて書き、家庭教育の大切さを説いた書(1844年)はどれか。
『母の歌と愛撫の歌』(1844年)は、母親向けに家庭教育の大切さを説いたフレーベルの書です。『人間の教育』(1826年)もフレーベルの著作ですが、カイルハウでの実践をもとにした主著で、母親向けの書ではありません。『隠者の夕暮』はペスタロッチ、『世界図絵』はコメニウスの著作です。
根拠:コトバンク「フレーベル」(2026-10-16確認)
フレーベルの幼稚園のその後についての説明として、最も適切なものはどれか。
1851年、プロイセン政府は幼稚園禁止令を出し、フレーベルは翌年に亡くなりましたが、弟子たちが運動を受け継ぎ、幼稚園はヨーロッパ・北アメリカ・日本などに広がりました。生前に公立化されたわけではありません。幼稚園はドイツで生まれ、アメリカへ広がったので、順序が逆です。ペスタロッチはフレーベルの師で、閉鎖の原因ではありません。
根拠:コトバンク「フレーベル」、Britannica「Friedrich Froebel」、Britannica「kindergarten」(2026-10-16確認)
モンテッソーリが最初の「子どもの家」を開いた都市はどこか。
モンテッソーリは1907年(1905年とする事典もある)、ローマの貧しい地区サン・ロレンツォに最初の子どもの家を開きました。ミラノの子どもの家は1908年にできたもので、最初ではありません。ブランケンブルクはフレーベルが幼稚園を開いた町、チューリヒはペスタロッチが生まれた町です。
根拠:Britannica「Children's House」、コトバンク「モンテッソーリ」(2026-10-16確認)
モンテッソーリが自分の教育方法をつくるきっかけとなった経歴として、最も適切なものはどれか。
モンテッソーリはローマ大学で医学の学位を得た医師で、知的障害のある子どもの研究と治療にあたり、その方法をほかの子どもに広げました。紡績工場の経営はオーエン、プラグマティズムはデューイ、牧師として幼児を預かったのはオーベルランです。
根拠:Britannica「Maria Montessori」、コトバンク「モンテッソーリ」、Britannica「Children's House」(2026-10-16確認)
モンテッソーリが子どもの細かな観察から見いだした、ある能力を特に身につけやすい時期を何というか。
モンテッソーリが見いだしたのは「敏感期」です。「臨界期」は主に生物学・心理学で使われる言葉で、モンテッソーリの用語として学ぶものではありません。「発達課題」は各段階で達成が期待される課題を指す言葉です。「自己活動期」はモンテッソーリの用語ではありません(自己活動はフレーベルが重んじた考えです)。
根拠:コトバンク「モンテッソーリ」(2026-10-16確認)
モンテッソーリの教育の日本での受け入れについて、最も適切なものはどれか。
モンテッソーリの教育は大正期に河野清丸らによって紹介されましたが、当時は十分に受け入れられず、1950年代半ば以降に再評価されました。明治初めの幼稚園はフレーベルの方法によるもので、子どもの家ができたのは1907年なので明治初めの採用はありえません。誘導保育は倉橋惣三自身の考えです。保育要領は特定の人物の方法を中心に定めたものではありません。
根拠:コトバンク「モンテッソーリ」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園の創設」、文部科学省『学制百年史』「新しい幼稚園制度の充実」(2026-10-16確認)
1900年に『児童の世紀』を著した人物は誰か。
『児童の世紀』は、スウェーデンのエレン・ケイが1900年に出した本です(英語訳は1909年)。モンテッソーリの代表的な著作は『モンテッソーリ・メソッド』、デューイは『学校と社会』『民主主義と教育』です。マルボーはパリで託児施設を始めた人物です。
根拠:Britannica「Ellen Key」(2026-10-16確認)
デューイについての説明として、正しいものはどれか。
デューイは1896年にシカゴ大学に実験学校をつくり、その教育原理を『学校と社会』(1899年)にまとめました。子どもの家はモンテッソーリ、幼稚園の命名はフレーベル、工場の中の幼児学校はオーエンです。
根拠:コトバンク「デューイ」、Britannica「Friedrich Froebel」(2026-10-16確認)
日本の幼稚園教育が本格的に始まったとされる幼稚園はどれか。
1876(明治9)年に開かれた東京女子師範学校附属幼稚園から、日本の幼稚園教育が本格的に始まりました。学制の「幼稚小学」は規定されただけで、実際にはつくられていません。大阪府立模範幼稚園は1879年、二葉幼稚園は1900年で、どちらも附属幼稚園より後です。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園の創設」、湯川嘉津美「幼稚園と小学校の連携・接続をめぐる歴史的考察」(文部科学省 調査研究協力者会議 資料、2010年)(2026-10-16確認)
東京女子師範学校附属幼稚園(1876年)の人物と役割の組合せとして、正しいものはどれか。
開園時の監事は関信三、首席保母はドイツ出身の松野クララで、豊田芙雄らが保母を務めました。倉橋惣三は1882年生まれで、のちに東京女子高等師範学校附属幼稚園の主事を務めた人物です。野口幽香は1900年に二葉幼稚園を開いた人物、赤沢鍾美は新潟静修学校で幼児を預かった人物です。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園の創設」、コトバンク「倉橋惣三」(2026-10-16確認)
1877年に定められた東京女子師範学校附属幼稚園の規則で、保育の内容を分けた3つの科の組合せはどれか。
1877年の規則は、保育の内容を「物品科」「美麗科」「知識科」の3つに分け、その中に約25の活動を含めました。遊戯・唱歌・談話は1899年の規程の保育項目(手技を加えた4つ)の一部、健康・社会・自然は1956年の幼稚園教育要領の領域の一部です。観察が保育項目に入ったのは1926年の幼稚園令からです。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園の創設」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園の整備」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園令の制定」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園教育の発展と振興」(2026-10-16確認)
1882(明治15)年に文部省が設置を勧めた「簡易幼稚園」のねらいとして、最も適切なものはどれか。
最初の幼稚園は主に上流家庭の子どもが通っていたため、文部省は1882年、子育てをする暇のない貧しい家庭の子どもも受け入れる簡易な幼稚園を勧めました。読み書き・計算の集中指導が目的ではありません。上流家庭向けの本格的な保育は、むしろ初期の附属幼稚園の姿です。「保母1人につき40人以下」は1899年の規程の基準で、3歳未満を対象とする内容ではありません。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園の創設」(2026-10-16確認)
1899(明治32)年の幼稚園保育及設備規程で示された保育項目として、正しいものはどれか。
1899年の規程の保育項目は、遊戯・唱歌・談話・手技の4つです。これに観察を加えて「等」をつけたのが1926年の幼稚園令です。健康・社会・自然・言語は1956年の幼稚園教育要領の6領域の一部、物品・美麗・知識は1877年の附属幼稚園の規則の科の名前です。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園の整備」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園令の制定」(2026-10-16確認)
1899年の幼稚園保育及設備規程の内容として、正しいものはどれか。
この規程は、対象を満3歳から小学校に入るまでの幼児とし、保育時間を1日5時間以内、保母1人につき幼児40人以下、1園100人以下(特別な事情があれば150人以下)と定めました。満2歳からとする内容、8時間・300人とする内容、保母1人20人以下とする内容は、どれも規程の数字と違います。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園の整備」(2026-10-16確認)
明治期の保育施設と人物の組合せとして、正しいものはどれか。
二葉幼稚園は1900年に野口幽香と森島美根が東京で開いた、貧しい家庭の子どものための幼稚園です。新潟静修学校は赤沢鍾美・仲子夫妻の学校で、1890年に幼い子どもを別室で預かりました。人物を入れ替えた組合せは誤りです。関信三・松野クララは東京女子師範学校附属幼稚園の人物です。
根拠:国立国会図書館 レファレンス協同データベース「二葉幼稚園」、コトバンク「保育所」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園の創設」(2026-10-16確認)
次のできごとを古い順に並べたものとして、正しいものはどれか。<br>ア:文部省が簡易幼稚園を勧める イ:東京女子師範学校附属幼稚園が開かれる ウ:二葉幼稚園が開かれる エ:幼稚園保育及設備規程が定められる
附属幼稚園は1876年、簡易幼稚園の勧めは1882年、幼稚園保育及設備規程は1899年、二葉幼稚園は1900年です。簡易幼稚園を附属幼稚園より前に置く並べ方は、勧めの理由(初期の幼稚園が上流家庭中心だったこと)とも合いません。二葉幼稚園を規程より前に置く並べ方、規程を簡易幼稚園より前に置く並べ方も年代が違います。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園の創設」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園の整備」、国立国会図書館 レファレンス協同データベース「二葉幼稚園」(2026-10-16確認)
1926(大正15)年の幼稚園令についての説明として、正しいものはどれか。
幼稚園令は、幼稚園について初めて定められた独立した勅令で、保育項目を「遊戯、唱歌、観察、談話、手技等」とし、従来の4項目に観察を加えました。特別な事情があれば3歳未満も入園できるとしています。3つの科は1877年の附属幼稚園の規則、幼稚園を学校とし教諭の名称にしたのは1947年の学校教育法、6領域は1956年の幼稚園教育要領です。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園令の制定」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園の創設」、文部科学省『学制百年史』「新しい幼稚園制度の充実」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園教育の発展と振興」(2026-10-16確認)
倉橋惣三についての説明として、最も適切なものはどれか。
倉橋惣三は東京女子高等師範学校の教授で、附属幼稚園の主事を3度務めました。子どもの生活や興味にそって活動を導く誘導保育を説き、1934年に『幼稚園保育法真諦』を著しました。1876年の附属幼稚園の監事は関信三で、倉橋はまだ生まれていません。新潟静修学校は赤沢鍾美・仲子夫妻、大正期にモンテッソーリを紹介したのは河野清丸らです。
根拠:コトバンク「倉橋惣三」、湯川嘉津美「幼稚園と小学校の連携・接続をめぐる歴史的考察」(文部科学省 調査研究協力者会議 資料、2010年)、文部科学省『学制百年史』「幼稚園の創設」、コトバンク「モンテッソーリ」(2026-10-16確認)
倉橋惣三が改めようとした、明治以来の幼稚園の保育のあり方として最も適切なものはどれか。
倉橋は、明治以来形式化していたフレーベル主義を改め、子どもの自由な遊びを中心とする保育を進めました。自由な遊びの重視、生活や興味にそった保育は、倉橋が改めた対象ではなく、倉橋自身が進めた方向です。倉橋は児童心理学を研究しており、心理の研究にもとづく保育も改めようとした対象ではありません。
根拠:コトバンク「倉橋惣三」、湯川嘉津美「幼稚園と小学校の連携・接続をめぐる歴史的考察」(文部科学省 調査研究協力者会議 資料、2010年)(2026-10-16確認)
1947年に成立した法律と、それによって位置づけられた施設の組合せとして、正しいものはどれか。
1947年の学校教育法で幼稚園は学校の一つとなり、同じ年の12月の児童福祉法で保育所は児童福祉施設になりました。法律と施設を入れ替えた組合せは誤りです。戦後に幼稚園と保育所を一つにまとめる案は議論されましたが、実現していません。
根拠:文部科学省『学制百年史』「新しい幼稚園制度の充実」、湯川嘉津美「幼稚園と小学校の連携・接続をめぐる歴史的考察」(文部科学省 調査研究協力者会議 資料、2010年)、e-Gov法令検索「学校教育法」(2026-10-16確認)
1948年に文部省が出した「保育要領」についての説明として、最も適切なものはどれか。
保育要領は、幼稚園だけでなく保育所の職員や家庭の保護者も対象にした手引きで、見学・リズム・自由遊び・お話などの「楽しい幼児の経験」を12項目あげました。告示として公示されたのは1964年度改訂の幼稚園教育要領です。6領域は1956年の幼稚園教育要領、観察を含む保育項目は1926年の幼稚園令です。
根拠:文部科学省『学制百年史』「新しい幼稚園制度の充実」、湯川嘉津美「幼稚園と小学校の連携・接続をめぐる歴史的考察」(文部科学省 調査研究協力者会議 資料、2010年)、文部科学省『学制百年史』「幼稚園教育の発展と振興」、文部科学省『学制百年史』「幼稚園令の制定」(2026-10-16確認)
1956(昭和31)年の幼稚園教育要領で示された6つの領域に含まれないものはどれか。
1956年の幼稚園教育要領の6領域は、健康・社会・自然・言語・音楽リズム・絵画制作です(『学制百年史』の表記。「絵画製作」と書く資料もあります)。社会・音楽リズム・自然はこの中に含まれます。「人間関係」は今の幼稚園教育要領の5領域(健康・人間関係・環境・言葉・表現)の一つで、1956年の6領域にはありません。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園教育の発展と振興」、文部科学省「幼稚園教育要領」(平成29年告示)(2026-10-16確認)
1964(昭和39)年度の幼稚園教育要領の改訂についての説明として、正しいものはどれか。
1964年度の改訂では、教育課程の編成や指導計画の作成をより適切にするために要領を見直し、小・中・高校と同様に文部省告示として公示しました。幼稚園教育要領を定めるのは文部省で、厚生省ではありません(保育所保育指針は1965年に別につくられました)。領域を廃止して明治の保育項目に戻した事実はなく、幼稚園は義務教育になっていません。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園教育の発展と振興」、厚生労働省「保育所保育指針解説」(平成30年2月)序章(2026-10-16確認)
1963年に文部省と厚生省の局長が共同で出した通知の内容として、最も適切なものはどれか。
1963年の共同通知は、幼稚園と保育所がそれぞれの役割を果たすとしたうえで、保育所の4・5歳児も幼稚園教育の趣旨にそって教育がなされるべきだとしました。統合は求めていません。保育所が3歳以上を受け入れないとした事実はありません。幼稚園の保育時間を8時間にそろえた内容も通知にはありません。
根拠:文部科学省『学制百年史』「幼稚園教育の発展と振興」(2026-10-16確認)
保育所保育指針と幼稚園教育要領の関係についての説明として、正しいものはどれか。
2017年の改定で、保育所保育指針は幼稚園教育要領・幼保連携型認定こども園教育・保育要領との整合性をさらに図り、「知識及び技能の基礎」など3つの資質・能力と「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」を示しました。指針の告示化は2008年の改定のときです。指針は1965年につくられ、1990年・1999年・2008年・2017年に改訂・改定されています。今の要領は5領域(健康・人間関係・環境・言葉・表現)です。
根拠:厚生労働省「保育所保育指針解説」(平成30年2月)序章、文部科学省「幼稚園教育要領」(平成29年告示)(2026-10-16確認)
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※ 解説は学習用の情報提供です。認定試験・採用選考の受験資格や実施方法は、必ず文部科学省・受験する自治体の公式発表をご確認ください。
※ 問題はすべて仮の宿 学習室のオリジナル問題で、本試験の問題ではありません。幼稚園教育要領は平成29年告示のもの(2026年10月時点)です。