世界最初の絵入り教科書とされる『世界図絵』(1658年)を著した人物はだれか。
- ルソー
- ペスタロッチ
- コメニウス
- ヘルバルト
正解と解説
『世界図絵』はコメニウスの著作で、世界最初の絵入り教科書とされ、直観教授の先駆けと位置づけられます。ルソーの主著は『エミール』、ペスタロッチは『ゲルトルートはいかにしてその子を教えるか』など、ヘルバルトは『一般教育学』で、いずれも絵入り教科書ではありません。
教員採用試験 TEACHER EMPLOYMENT EXAM
17〜19世紀に、近代の学校と教え方の土台を作った5人の思想家を、主著とキーワードで整理します。人物と著書の組合せは教員採用試験の定番です。
教員採用試験の「教育史」では、人物・主著・キーワードの組合せがよく問われます。丸暗記の前に、「子どもをどう見たか」「どう教えようとしたか」という流れをつかむと、選択肢の言い換えにも対応しやすくなります。この講義では、17世紀から19世紀にかけて近代の学校と教え方の土台を作った5人を、時代順に見ていきます。
コメニウス(1592〜1670年)は、モラビア(現在のチェコ)生まれの教育思想家・神学者です。主著『大教授学』(1657年)で、身分を問わず教育を受けられる学校の改革を提案し、「すべての人に」「すべてのことを」「楽しく」「的確に」教える方法を論じました。身分によって分けない単線型の学校制度を説いた点でも知られ、「近代教育学、とくに教授学(教え方の学問)の祖」と呼ばれます。
もう一つの代表作が『世界図絵』(1658年)です。世界最初の絵入り教科書とされ、ことばと絵を結びつけて学ばせる工夫がされています。実物や絵を見せて感覚を通して理解させる直観教授の先駆けと位置づけられています。
ルソー(18世紀フランスで活躍した思想家)の『エミール』(1762年)は、小説の形と教育論を組み合わせた作品です。『社会契約論』と同じ年に出版され、刊行後すぐにパリ高等法院に摘発されました。ルソーは「人は子どもというものを知らない」と述べ、大人の小型として子どもを扱うのではなく、子どもとは何かを研究するところから教育を考えるべきだと主張しました。このため『エミール』は「子どもの発見の書」と呼ばれます。
『エミール』は5編からなり、主人公エミールの成長を、子ども期・青年期・成人という段階に分けて描いています。言葉で教え込むより、事物を通して学ばせる教育を重んじ、この考えはペスタロッチに受け継がれました。のちの新教育運動(講義2)にも大きな影響を与えています。
ペスタロッチ(1746〜1827年)はスイス・チューリヒ生まれの教育実践家です。ノイホーフで農場と貧民学校を開き、農民の子どもに糸紡ぎと読み書きを教えましたが失敗しました。1798年にはシュタンツで戦争孤児の世話にあたり、その経験を友人への手紙の形で『シュタンツ便り』にまとめました。その後ブルクドルフで民衆学校の教師となり、1805年に開いたイベルドンの学校は、数年のあいだ「全ヨーロッパの教育のメッカ」と呼ばれるほど多くの見学者を集めました。
主な著作は、『隠者の夕暮』(1780年)、教育小説『リーンハルトとゲルトルート』(1781〜87年)、教育学上の主著『ゲルトルートはいかにしてその子を教えるか』(1801年)です。ペスタロッチは直観(ものを実際に見たり触れたりしてとらえること)を認識の基礎とし、知識の基本的な要素を形・数・言語に分けて考えました。また「生活が陶冶する」(陶冶=人間の力を形づくり育てること)という原理を唱え、道徳的・宗教的な心情を中心に、知・徳・技能が調和して発達することをめざしました。
フレーベル(1782〜1852年)はドイツの教育者で、イベルドンのペスタロッチを2度訪ねて学びました。主著は『人間の教育』(1826年)です。子どもの自己活動と遊びを重んじ、1830年代に幼児用の教育的な遊具「恩物」(おんぶつ、ドイツ語でGabe=贈り物)を考案しました。1830年代後半に幼児のための施設を開き、1840年にこれを「キンダーガルテン」(子どもの庭)と名づけました。これが「幼稚園」の始まりです。プロイセンでは1851年に幼稚園禁止令が出されましたが、考え方は世界に広がり、日本では1876年に東京女子師範学校に附属幼稚園が設けられました。
ヘルバルト(1776〜1841年)はドイツの哲学者・教育学者で、主著は『一般教育学』(1806年)です。教育の目的を倫理学から、方法を心理学から導き、科学的な教育学の創始者の一人とされます。教育の目的は道徳的な品性の形成で、そのために多面的興味を育てるとしました。また、教育(訓育)に役立たない教授はほんとうの教授ではないとして「教育的教授」を唱えました。
ヘルバルトは、ものごとを理解していく過程を明瞭・連合・系統・方法の4段階でとらえました。弟子筋のヘルバルト派はこれを授業の型に発展させ、ラインは予備・提示・比較・総括・応用の5段階(五段教授法)を示しました。日本には1887年に来日したハウスクネヒトによって伝えられ、1890年ころから広まりました(講義2)。
| 人物 | 主著(年) | キーワード |
|---|---|---|
| コメニウス | 『大教授学』(1657)、『世界図絵』(1658) | 教授学の祖、すべての人にすべてのことを、世界最初の絵入り教科書 |
| ルソー | 『エミール』(1762) | 子どもの発見、事物を通しての教育 |
| ペスタロッチ | 『隠者の夕暮』(1780)、『ゲルトルートはいかにしてその子を教えるか』(1801) | 直観、形・数・言語、生活が陶冶する、シュタンツ・イベルドン |
| フレーベル | 『人間の教育』(1826) | 恩物、キンダーガルテン(1840年命名)、遊び |
| ヘルバルト | 『一般教育学』(1806) | 目的は倫理学・方法は心理学、多面的興味、教育的教授、4段階 |
根拠:コトバンク所収『日本大百科全書』『世界大百科事典』ほか「コメニウス」「直観教授」「ルソー」「エミール」「ペスタロッチ」「フレーベル」「ヘルバルト」「五段教授法」、Encyclopaedia Britannica「John Amos Comenius」「Emile」「Johann Heinrich Pestalozzi」「Friedrich Froebel」「kindergarten」「Johann Friedrich Herbart」(2026-10-16確認)。生没年・刊行年は事典によって1〜2年異なる場合があります(例:フレーベルの施設開設は1837年とも1839年ともされる)。
子ども中心の教育を掲げた20世紀前後の新教育運動と、西洋の教え方が明治・大正の日本にどう取り入れられたかを学びます。
19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、欧米で新教育運動が起こりました。国によって内容は違いますが、教え込み中心の授業を見直し、子どもの自己活動(自分から動いて学ぶこと)を重んじた点が共通しています。子どもの自発性を重んじるため、民主的・自由主義的な立場を強調する運動にもなりました。1921年には、フランスのカレーでの会議で国際的な連盟が作られています。日本では大正期から昭和の初めに盛んになりました。
スウェーデンのエレン・ケイ(1849〜1926年)は、1900年に『児童の世紀』を発表しました。1909年には英語訳(The Century of the Child)も出版されました。
アメリカのデューイ(1859〜1952年)は、プラグマティズム(考えや知識を、実際に役立つかどうか・行動の結果で確かめる哲学)を大成させた哲学者で、教育では進歩主義教育運動の指導者でした。1896年にシカゴ大学に実験学校(ラボラトリー・スクール)を作り、その教育原理を『学校と社会』(1899年)にまとめました。学校での生活と社会のつながりを重んじ、子どもが作業や活動をしながら学ぶことを大切にしました。
主著『民主主義と教育』(1916年)では、教育を「経験の意味を増し、後に続く経験を導く力を増すような、経験の再構成(再組織化)」と定義しました。晩年の『経験と教育』(1938年)でも、経験の質を問い続けています。
デューイの指導を受けたキルパトリック(1871〜1965年)は、1918年に『プロジェクト・メソッド』を著しました。子ども自身が目的をもって取り組む活動を学習の単位とし、目標設定・計画・展開・評価の4段階で進める方法です。
イタリアの医師・教育者モンテッソーリ(1870〜1952年)は、知的障害のある子どもの教育から研究を始め、その方法をほかの子どもにも広げました。ローマの貧しい地区に「子どもの家」を開き(開設年は、1907年とする事典と1905年とする事典がある)、感覚教育のための教具を整えた環境で、子どもが自由に活動するなかで自分から育つことを重んじました。子どもをよく観察して「敏感期」(ある能力を特に吸収しやすい時期)を見いだしたことでも知られます。
アメリカのパーカーストは、1920年にマサチューセッツ州ドルトンのハイスクールでドルトン・プランを始めました。教科ごとに教材をそろえた部屋(「実験室」)を設け、生徒は約1か月の学習計画を立てて教師と契約し、自分のペースで学びます。一斉に同じ進度で教える授業をやめ、自由と協同を原理としました。
明治初めの日本は、欧米の教え方を積極的に取り入れました。1872(明治5)年、東京に作られた師範学校(教員を養成する学校)にはアメリカ人スコットが招かれ、近代学校の特徴である学級教授法(学級の子どもにいっせいに教える方法)を初めて持ち込みました。実物を見せて教えるobject lessonsは「庶物指教」と呼ばれました。
アメリカのオスウィーゴー師範学校でペスタロッチ主義の教育方法を学んだ高嶺秀夫は、1878(明治11)年に帰国し、東京師範学校で開発主義教授法を広めました。当時の教授法書には「五官ヨリ始メヨ」(目・耳などの感覚から始めよ)という原則が書かれています。その後、1887年に来日したハウスクネヒトがヘルバルト派の教育学を伝え、1890年ころから五段教授法が広く知られるようになりました。開発主義(ペスタロッチ系)の次に、ヘルバルト派の段階的な授業の型が広まった、という順番で押さえましょう。
大正期には、欧米の新教育運動の影響を受けて、子どもの自発的な活動を重んじる教育が日本でも試みられました。元文部次官の沢柳政太郎は1917(大正6)年に成城小学校を創設し、教育の科学的研究を重んじ、ドルトン・プランの導入にも力を尽くしました。ただし、ドルトン・プランを採り入れたのは一部の私立学校にとどまりました。
| 人物(国) | 主著・実践(年) | キーワード |
|---|---|---|
| エレン・ケイ(スウェーデン) | 『児童の世紀』(1900) | 子どもの権利と教育を論じる(1909年に英語訳) |
| デューイ(アメリカ) | シカゴ大学実験学校(1896)、『学校と社会』(1899)、『民主主義と教育』(1916) | プラグマティズム、経験の再構成、進歩主義教育 |
| キルパトリック(アメリカ) | 『プロジェクト・メソッド』(1918) | 目標設定・計画・展開・評価 |
| モンテッソーリ(イタリア) | 「子どもの家」(ローマ) | 感覚教育の教具、敏感期 |
| パーカースト(アメリカ) | ドルトン・プラン(1920) | 実験室、学習の契約、自由と協同 |
| 沢柳政太郎(日本) | 成城小学校(1917) | 大正期の新教育、ドルトン・プランの導入 |
根拠:コトバンク所収『日本大百科全書』『世界大百科事典』『百科事典マイペディア』ほか「新教育運動」「デューイ」「キルパトリック」「モンテッソーリ」「ドルトン・プラン」「沢柳政太郎」「高嶺秀夫」「ヘルバルト」「五段教授法」、Encyclopaedia Britannica「Ellen Key」「John Dewey」「progressive education」「Maria Montessori」、文部科学省『学制百年史』「小学校教育の内容と方法」「学制の実施」「学科課程の整備」「教育制度の拡充」(2026-10-16確認)
1872年の学制から1947年の教育基本法・学校教育法まで、義務教育と小学校・中学校の制度がどう変わってきたかを年表でたどります。
日本の近代学校は、1872(明治5)年の学制から始まりました。この講義では、文部省(現在の文部科学省)がまとめた『学制百年史』をもとに、学制から戦後の教育改革までを、小学校と中学校の両方の動きに目を配りながらたどります。年号は「何が、どちらの方向に変わったか」とセットで覚えましょう。
1872年8月2日、学制の趣旨を示す太政官布告第214号(「学事奨励に関する被仰出書(おおせいだされしょ)」)が出され、翌3日に文部省が学制を全国に頒布しました。被仰出書は「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」ことをめざし、学問は身を立てるための「財本」だとして、すべての人が学ぶべきだとしました。
学制は、全国を8大学区に分け、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に分ける学区制をとりました。予定では大学8校、中学校256校、小学校53,760校です。学区制などの大枠はフランスの制度を模範としたとみられますが、教育内容ではアメリカの影響が強いとされます。小学校は下等小学(6〜9歳)・上等小学(10〜13歳)各4年でした。学校の経費は住民の負担(民費)が原則で、授業料も取りました(規定は月50銭、実際は1〜3銭程度が多かった)。1875(明治8)年の就学率は約35%(男子約50%、女子約19%)にとどまり、社会の実情に合わない点が多くありました。
1879(明治12)年の教育令は、田中不二麿がアメリカの教育行政を参考に起草しました。学区制を廃止して町村を小学校設置の単位とし、就学義務を学齢期間中少なくとも16か月に緩めました。自由民権の思想とも結びつけられ、「自由教育令」と呼ばれます。
翌1880(明治13)年12月の改正教育令では、国家の統制を基本方針に改め、小学校の学科の最初に修身を置き、3年の課程を終えるまで毎年16週以上の就学を求めました。1881年の小学校教則綱領は、小学校を初等科3年・中等科3年・高等科2年としました。
文部大臣森有礼のもとで、1886(明治19)年に帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令が公布されました(諸学校令)。小学校令(4月10日公布)は小学校を尋常・高等の2段階(各4年)とし、「父母後見人等ハ其学齢児童ヲシテ普通教育ヲ得セシムルノ義務アルモノトス」(第3条)と定めて、尋常小学校卒業までの就学を義務としました。中学校も尋常・高等の2段階とされ、師範学校には軍隊式の教育が取り入れられました。
1890(明治23)年の小学校令の改正では、第1条で初めて小学校の目的が「道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クル」ことと定められました。同じ年の10月30日に「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)が出されます。井上毅の原案を中心に、元田永孚が協力してまとめたものです。翌1891年の小学校教則大綱は、修身を「教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ」行うとしました。
1900(明治33)年の小学校令改正で、尋常小学校を4年に統一し、公立小学校では授業料を取らないことを原則としました。就学率は1900年に80%を超え、1905(明治38)年には約96%に達しました。1902年の教科書採択をめぐる贈収賄事件(教科書事件)を受け、1903(明治36)年の小学校令改正で国定教科書制度が決まり、1904年から使われ始めました。1907(明治40)年には尋常小学校を2年延長して6年制とし、これを義務教育としました。
1917(大正6)年に内閣に臨時教育会議が置かれ、明治以来の制度を拡充する方向の改革を答申しました。これを受けて1918年に市町村義務教育費国庫負担法が公布され、尋常小学校の教員の給与の一部を国庫が負担するようになりました。同じころ、講義2で見た新教育の実践が私立学校などで広がります。
戦時下の1941(昭和16)年3月1日には国民学校令が公布され、4月1日から小学校は国民学校になりました。第1条は目的を「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」とし、初等科6年・高等科2年、教科は国民科・理数科・体錬科(『学制百年史』の本文では「体練科」と表記)・芸能科・実業科(高等科)にまとめられました。義務教育を8年に延ばす規定も置かれましたが、1944年度からの実施は戦時の非常措置で延期され、そのまま終戦を迎えました。
1946(昭和21)年3月に来日した米国教育使節団は、報告書で6・3・3制、6・3の義務制と授業料無償、男女共学、公選による教育委員会の設置などを勧告しました。同年8月には内閣に教育刷新委員会が置かれ、日本側で改革案を審議しました。
1947(昭和22)年3月、教育基本法(前文と11条)が制定され、教育の機会均等・義務教育・男女共学などが定められました。同じ3月31日に学校教育法(昭和22年法律第26号)が公布され、4月から施行されて、新制の小学校と中学校が発足しました。3年制の中学校を含めて義務教育は9年になり、すべての中学校が普通教育を行う学校になりました。いまの学校教育法も、小学校は「義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なもの」を施す(第29条)、中学校は「小学校における教育の基礎の上に」義務教育として行われる普通教育を施す(第45条)と、2つを続けて定めています。
教育課程では、1947年春に「学習指導要領 一般編(試案)」が出され、修身・国史・地理がなくなり、社会・家庭・自由研究が教科として登場しました。1948(昭和23)年7月には教育委員会法が制定され、住民の選挙で選ばれた委員による教育委員会が11月に発足しました。同じ1948年、衆議院と参議院でそれぞれ教育勅語の排除・失効確認の決議が行われました。なお教育基本法は2006(平成18)年に全部改正されています(教育の理念と教育基本法を参照)。
| 年 | できごと | ポイント |
|---|---|---|
| 1872(明治5) | 学制・被仰出書 | 学区制(8大学区)、下等・上等小学各4年、民費・授業料 |
| 1879(明治12) | 教育令 | 学区制廃止・町村単位、就学16か月、「自由教育令」 |
| 1880(明治13) | 改正教育令 | 国家統制、修身を首位に |
| 1886(明治19) | 諸学校令(森有礼) | 小学校令で尋常小学校までの就学を義務化 |
| 1890(明治23) | 小学校令改正・教育勅語 | 小学校の目的を規定、10月30日に勅語 |
| 1900(明治33) | 小学校令改正 | 尋常小学校4年に統一、授業料不徴収の原則 |
| 1903(明治36) | 国定教科書制度 | 1904年から使用 |
| 1907(明治40) | 義務教育6年 | 尋常小学校を6年制に |
| 1941(昭和16) | 国民学校令 | 皇国ノ道ニ則リテ、義務8年の規定(実施延期) |
| 1946(昭和21) | 米国教育使節団 | 6・3・3制、男女共学、公選の教育委員会を勧告 |
| 1947(昭和22) | 教育基本法・学校教育法 | 新制小・中学校が発足、義務教育9年 |
| 1948(昭和23) | 教育委員会法、勅語の失効確認決議 | 公選制の教育委員会 |
根拠:文部科学省『学制百年史』(目次)「学制の制定」「学制の実施」「学制における小学校の制度」「教育令の公布」「改正教育令の実施」「森文相と諸学校令の公布」「小学校令の制定」「明治憲法と教育勅語」「学科課程の整備」「義務教育制度の確立」「国定教科書制度の成立」「教育制度の拡充」「国民学校令の公布」「新教育の基本方針」「新教育制度の具現」、e-Gov法令検索「学校教育法」(第29条・第45条)・「教育基本法」(2026-10-16確認)
世界最初の絵入り教科書とされる『世界図絵』(1658年)を著した人物はだれか。
『世界図絵』はコメニウスの著作で、世界最初の絵入り教科書とされ、直観教授の先駆けと位置づけられます。ルソーの主著は『エミール』、ペスタロッチは『ゲルトルートはいかにしてその子を教えるか』など、ヘルバルトは『一般教育学』で、いずれも絵入り教科書ではありません。
コメニウスが『大教授学』(1657年)で示した考え方として、最も適切なものはどれか。
コメニウスは『大教授学』で、身分を問わず教育を受けられる学校の改革を提案し、「すべての人に、すべてのことを」教える方法を論じました。身分で分けない単線型の学校制度も説いています。貴族の家庭教育を説いたのではなく、身分別の学校系統(複線型)はむしろ反対の考えです。「何も教えず任せる」という極端な主張もしていません。
根拠:コトバンク「コメニウス」
ルソーの『エミール』について正しいものはどれか。
『エミール』は1762年に刊行され、すぐにパリ高等法院に摘発されました(同じ年に『社会契約論』も出版)。「恩物」はフレーベル、教育の目的を倫理学・方法を心理学から導いたのはヘルバルト、戦争孤児の体験を手紙の形でまとめたのはペスタロッチの『シュタンツ便り』です。
「人は子どもというものを知らない」と述べ、子どもとは何かの研究から教育を考えるべきだとして、その著作が「子どもの発見の書」と呼ばれる人物はだれか。
ルソーの『エミール』は「子どもの発見の書」と呼ばれ、ルソーは「人は子どもというものを知らない」として、子どもを大人の小型として扱うことを批判しました。コメニウスは教授学の祖、ヘルバルトは科学的教育学の創始者の一人、デューイは経験を重んじた20世紀の思想家で、いずれもこの言葉の主ではありません。
根拠:コトバンク「エミール」
1798年にシュタンツで戦争孤児の世話にあたり、のちにイベルドンに開いた学校が「全ヨーロッパの教育のメッカ」と呼ばれた人物はだれか。
シュタンツ、ブルクドルフ、イベルドンはペスタロッチの実践の地です。フレーベルはイベルドンのペスタロッチを訪ねて学んだ側で、幼稚園の創始者です。モンテッソーリはローマの「子どもの家」、コメニウスは17世紀の人物で、いずれも当てはまりません。
ペスタロッチの教育思想として最も適切なものはどれか。
ペスタロッチは直観を認識の絶対的な基礎とし、知識の基本要素を形・数・言語に分けて考えました。5段階の授業はヘルバルト派のライン、経験の再構成と作業・活動を通した学びはデューイ、学習の契約と教科別の部屋(実験室)はパーカーストのドルトン・プランです。
人物と主著の組合せとして正しいものはどれか。
『人間の教育』(1826年)はフレーベルの主著です。『エミール』はルソー、『大教授学』はコメニウス、『一般教育学』はヘルバルトの著作なので、ほかの3つは人物と著書が入れ替わっています。
フレーベルについて正しいものはどれか。
フレーベルは1830年代に幼児用の教育的遊具「恩物」を考案し、1840年に幼児のための施設を「キンダーガルテン(子どもの庭)」と名づけました。「子どもの家」はモンテッソーリ、オスウィーゴー師範学校で学んだのは高嶺秀夫、『児童の世紀』はエレン・ケイです。
ヘルバルトの考え方として最も適切なものはどれか。
ヘルバルトは教育の目的を倫理学から、方法を心理学から導き、科学的な教育学の創始者の一人とされます。目標設定・計画・展開・評価はキルパトリックのプロジェクト・メソッド、修身を首位に置いたのは日本の改正教育令(1880年)、感覚教育の教具はモンテッソーリです。
ヘルバルト派のラインが示した授業の5段階として正しいものはどれか。
ラインの五段教授法は「予備・提示・比較・総括・応用」です。「明瞭・連合・系統・方法」はヘルバルト本人の4段階で、これに応用を足した形ではありません。「目標設定・計画・展開・評価」はキルパトリックのプロジェクト・メソッドの4段階です。「提示 → 予備 → 総括 → 比較 → 応用」とする選択肢は用語は合っていますが順番が違います。
1900年に『児童の世紀』を発表したスウェーデンの人物はだれか。
『児童の世紀』はスウェーデンのエレン・ケイの著作で、1900年に発表され、1909年には英語訳も出ました。モンテッソーリはイタリア、パーカーストとキルパトリックはアメリカの人物で、この本の著者ではありません。
デューイについて正しいものはどれか。
デューイは1896年にシカゴ大学に実験学校を設け、その教育原理を『学校と社会』(1899年)として刊行しました。1920年のドルトンはパーカースト、成城小学校(1917年)は沢柳政太郎、1887年に来日してヘルバルト派を伝えたのはハウスクネヒトです。
『民主主義と教育』(1916年)で、教育を「経験の意味を増し、後に続く経験を導く力を増すような、経験の再構成」と定義した人物はだれか。
「経験の再構成(再組織化)」はデューイの教育の定義で、『民主主義と教育』の考え方です。ヘルバルトは倫理学と心理学による教育学、ペスタロッチは直観と「生活が陶冶する」、フレーベルは恩物と遊びが中心で、この定義とは結びつきません。
根拠:コトバンク「デューイ」
デューイの指導を受け、1918年に『プロジェクト・メソッド』を著した人物と、その学習の段階の組合せとして正しいものはどれか。
プロジェクト・メソッドはキルパトリックの方法で、目標設定・計画・展開・評価の4段階で進めます。パーカーストはドルトン・プランの創始者、ラインは五段教授法(予備・提示・比較・総括・応用)の人物です。明瞭・連合・系統・方法はヘルバルトの4段階なので、「キルパトリック ― 明瞭・連合・系統・方法」は段階が誤りです。
モンテッソーリについて正しいものはどれか。
モンテッソーリはイタリアの医師で、知的障害のある子どもの教育から研究を始め、その方法をローマの「子どもの家」でほかの子どもにも用いました。感覚教育の教具で知られます。キンダーガルテンの命名はフレーベル、プラグマティズムと進歩主義教育はデューイ、明瞭・連合・系統・方法はヘルバルトです。
ドルトン・プランの説明として最も適切なものはどれか。
ドルトン・プランは、パーカーストが1920年に始めた方法で、生徒は約1か月の学習計画を立てて教師と契約し、教材をそろえた教科別の部屋(実験室)で自分のペースで学びます。一斉に同じ進度で教える授業をやめることがねらいなので、「同じ内容を同じ進度でいっせいに教える方法」は正反対です。実物と問答はアメリカ式の実物教授(庶物指教)、決まった段階で進めるのはヘルバルト派の五段教授法です。
19世紀末から20世紀初めの新教育運動に共通する特徴として最も適切なものはどれか。
新教育運動は国によって内容が違いますが、教授や訓練で子どもの自己活動を重んじた点が共通しています。そのため民主的・自由主義的な立場を強調する運動にもなりました。教師が決めた段階で伝える授業の定型化は、新教育が見直そうとした側です。国家への忠誠や身分別の学校は、新教育の特徴ではありません。
アメリカのオスウィーゴー師範学校でペスタロッチ主義の教育方法を学び、1878(明治11)年に帰国して開発主義教授法を広めた人物はだれか。
高嶺秀夫はオスウィーゴー師範学校でペスタロッチ主義を直接学び、東京師範学校で開発主義教授法を広めました。森有礼は1886年に諸学校令を出した文部大臣、沢柳政太郎は大正期に成城小学校を創設した人物、田中不二麿は1879年の教育令の起草の中心となった人物です。
1872(明治5)年に東京に作られた師範学校に招かれ、近代学校の特徴である学級教授法を初めて日本の学校に取り入れたアメリカ人はだれか。
学制百年史によると、東京の師範学校にはアメリカ人スコット(M.M.Scott)が招かれ、学級教授法を初めて日本の学校に取り入れました。ハウスクネヒトは1887年に来日してヘルバルト派を伝えた人物で、時期も内容も違います。パーカーストとデューイはアメリカの新教育の人物で、師範学校の教師として招かれたわけではありません。
沢柳政太郎について正しいものはどれか。
沢柳政太郎は元文部次官で、1917(大正6)年に成城小学校を創設し、子どもの自発的な活動を重んじる新教育運動を進め、ドルトン・プランの導入にも貢献しました。1886年の諸学校令は森有礼文相、教育勅語の原案は井上毅、1879年の教育令は田中不二麿が中心になって起草しました。
1872(明治5)年の学制について正しいものはどれか。
学制は全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に分ける学区制をとり、その大枠はフランスを模範としたとみられます(オランダの制度との類似やアメリカの影響も指摘されています)。町村単位と16か月は1879年の教育令、授業料不徴収の原則は1900年の小学校令改正、6年制の義務教育は1907年です。学制では経費は住民負担が原則で、授業料も取りました。
学制の序文にあたる太政官布告(「学事奨励に関する被仰出書」)の内容として最も適切なものはどれか。
被仰出書は、村に学ばない家がなく、家に学ばない人がいないようにすることをめざし、学問を立身のための財本と位置づけました。「皇国の道」は1941年の国民学校令、「道徳教育及国民教育ノ基礎」は1890年の小学校令、「日本国憲法の精神にのっとり」は教育基本法の前文の内容です。
根拠:学制百年史「学制の制定」
1879(明治12)年の教育令について正しいものはどれか。
教育令は田中不二麿がアメリカの教育行政を参考に起草し、学区制を廃止して町村を設置の単位とし、就学義務を16か月に緩めたため「自由教育令」と呼ばれました。修身を首位に置き統制を強めたのは翌1880年の改正教育令、尋常・高等の2段階と就学義務は1886年の小学校令、国民学校は1941年です。
1880(明治13)年の改正教育令の特徴として最も適切なものはどれか。
改正教育令は「自由教育令」と呼ばれた教育令を改め、国家の統制を基本方針とし、修身を学科の最初に置き、3年の課程を終えるまで毎年16週以上の就学を求めました。授業料不徴収と4年統一は1900年、6・3・3制と男女共学は戦後改革、学区と学校数の設定は1872年の学制です。
1886(明治19)年に森有礼文部大臣のもとで公布された学校令に含まれないものはどれか。
1886年には帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令が公布されました。国民学校令は1941(昭和16)年の法令で、このときの学校令には含まれません。小学校令は尋常小学校卒業までの就学を義務とし、師範学校令のもとで師範学校に軍隊式の教育が取り入れられました。
「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)について正しいものはどれか。
教育勅語は1890(明治23)年10月30日に出され、井上毅の原案を中心に元田永孚が協力してまとめました。戦後、1948(昭和23)年に衆議院・参議院でそれぞれ排除・失効確認の決議がされました。学制の序文は被仰出書(1872年)、国民学校令(1941年)は勅語ではなく法令で、前文と11条から成るのは1947年の教育基本法です。
明治後期の義務教育について正しいものはどれか。
1900(明治33)年の小学校令改正で尋常小学校を4年に統一し、授業料を取らないことを原則としました。1907(明治40)年に尋常小学校を2年延長して6年制とし、これを義務教育としました。1886年の小学校令は就学義務を定めましたが授業料不徴収ではありません。6年延長は1907年、学区制の廃止は1879年の教育令、1903年の改正は国定教科書制度です。
1941(昭和16)年の国民学校令について正しいものはどれか。
国民学校令は1941年3月1日に公布、4月1日から実施され、第1条で「皇国ノ道ニ則リテ…国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的としました。初等科6年・高等科2年で、義務教育を8年とする規定は1944年度からの実施予定でしたが、戦時の非常措置で延期されたまま終戦となりました。尋常・高等各4年は1886年の小学校令、学区制の廃止は1879年の教育令、義務9年は1947年の学校教育法です。
1946(昭和21)年3月に来日した米国教育使節団の報告書が勧告した内容として最も適切なものはどれか。
米国教育使節団の報告書は、6・3・3制、6・3の義務制とその無月謝、男女共学、公選による民主的な教育委員会を都道府県・市町村に設けることなどを勧告しました。修身を首位に置いたのは1880年の改正教育令、尋常小学校の6年制・義務化は1907年、国民学校は1941年です。
1947(昭和22)年4月の学校教育法の施行にともなって起きたこととして正しいものはどれか。
学校教育法(昭和22年3月31日法律第26号)が4月から施行され、新制の小学校と中学校が発足しました。3年制の中学校を含めて義務教育は9年になりました。今の学校教育法も、小学校(第29条)と中学校(第45条)の目的を続けて定めています。公選制の教育委員会は1948年の教育委員会法(11月発足)、国民学校は1941年、教育基本法の全部改正は2006年です。
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